訪問看護ステーションよつば

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今日は仕事お休みでした。春休みなので子ども達も家で自由にしています。三男が今日からサッカー合宿で不在。いつもお休みの時はたいてい一緒にいる次男と三男ですが、三男が不在となり「いないと寂しいなあ」と次男がぽつり。そして「大学行くと一人暮らしなの?」と聞いてくる。「なんで?」と聞くと、「一人なんて寂しくて無理。家で一人でしょ?俺無理だわ。」と。そっか、そんな心配してるんだと思いました。母の心配事とは全く違う世界です。大学行けるか、行くのか、その前に高校!そして4月からの中学校生活でしょ!と。「一人暮らしは楽しかったよ、門限ないし自由だった。でも、ゴキブリが出たときだけは恐怖だった。」と伝えておきました。母としては、高校出たら実家も離れて欲しいなあと思います。働くにしても大学などに行くにしても。お金かかりますが。いつまでも私に洗濯や食事の準備をしてもらうのでは無く自分で生活してみて欲しいです。親元にいるとみえないこと、経験できないことがたくさんあると思います。
お休みということで本屋さんにも行きました。最近気になっていた村上春樹の「女のいない男たち」という小説を読みたいなと思っていました。現在上映中の「ドライブ・マイ・カー」の原作です。3時間くらいの長い映画らしいですが、最近同じく3時間くらいの「ザ・バットマン」を観に行き、しばらく長い映画は観る気がしないので原作を読んでみようと思いました。村上春樹の「IQ84」や「ノルウェーの森」など長い小説を何年か前に読んでいましたが、この数年は小説を読む事なんて忘れていました。夜時間があれば、スマホで見逃し配信や動画をみている生活でした。なんとなくそんな時間の使い方にも飽きてきたので久しぶりの読書時間です。村上春樹の小説は、現実離れした世界が描かれるのでおもしろいです。理解に苦しむ描写や難しい表現もありすっ飛ばして読むことも多いですが。
写真の桜は昨日撮影したのも。利用者さん、ヘルパーさんと桜をみに外出しました。満開できれいでした。訪問での移動中もあちらこちらで桜をみることができます。「また春が来たんだな」と新たな気持ちにさせられます。


「食べられなくなったら終わりだ」
臨床の場でたびたび耳にする患者さんの言葉です。「食べる」ことは「生きること」とも言えます。なので、逆に食べられない状態は人を心細くさせ、時には希望までも失わせてしまいます。私たちにとって食べることは、栄養素の摂取だけでなく、味わうことの満足感や楽しみでもあります。なので、その人のQOL(生活の質)と深く結びついていることなのです。
現在の利用者さんの中でも「食べること」への支援を行なっている方が数名います。赤ちゃんから大人まで。機能的に食べられない要素があるけれど全く食べられないわけでは無い子どもや、食べられる機能を持っているけど食べない子、筋肉や神経の働きが障害されて食べられない方など様々です。様々な理由で食べられないので、目標も人それぞれ。私たち看護師は、利用者さんが多様な意味を持つ「食べること」ができるように、あの手この手で支援しています。そんな中でも問題が起こることは多々あります。今日は今まで何とか食べられていたパンを食べていてむせてしまった方がみえました。ではどうするのか。一番安全なのは「絶食」でしょうか。パンだけで無く、その他の食べ物でもむせてしまう可能性はあります。「パンはやめておく」なのか。むせにくいように「牛乳やスープにパンを浸して食べる」なのか。「パンを小さく切って食べる」なのか・・・。人それぞれ食習慣というものがあり、私はパンをスープなどに浸して食べることは好きではありません。だけど、むせないためにその方法をとりなさいと言われたら受け入れられるでしょうか。わかりません。食べ物そのものの工夫のみならず、スプーンの柄の長さやスプーンの大きさを変えることもむせない食べ方の工夫になります。食べるときの姿勢もそうです。色々な方法、選択肢があるので私たち看護師はそれらを多く知っておくことが必要です。すぐさま「こうすべき」と伝えるのではなく、その時のタイミング、利用者さんとの心理的な距離感を掴みながら助言を入れていきます。そこには信頼関係も必要。信頼のない看護師の言葉なんて耳に入りません。普段の関わりの中で信頼関係を培っていないと何の支援もできないのです。「支援」とは、決して看護師が前面に出てその人の手を引いていくのではなく、後ろに立って見守りながら、転びそうだったらそっと支えてあげるような感じです。抽象的ですが、そんなイメージをもって関わり、支援をしています。今日のパンでむせてしまった方、一日あれこれ考えていましたが、なんとなく「こんな感じで関わってみよう」みたいなイメージができてきました。その人が持っている力を使っていけるような支援、それを考えていくことは看護師の仕事の一つです。
うちのイグアナの「あわもり君」。体長1m30㎝。最近調子が悪くて全く食べません。夜のヒーターが数日切れていたようで、それに気がつかずにいました。イグアナは25度以上の環境でないと弱ってしまいます。しっかり暖めて動くようにはなり、排便もあるので経過観察中です。どうしたら食べるかな・・・。あまりストレスを与えないように距離をとって見守っています。とても男前な顔をしているですが、爬虫類が苦手な方もみえるので写真はやめておきました。


先日、名古屋ウイメンズマラソンが開催されました。何人かの方に走った?と聞かれました。走っていません。練習不足が理由です。なのでお仕事していました。マラソンコースの近くで訪問もあったので、マラソンの様子をみて頑張れなかった自分を後悔しました。訪問先の子どものお母さんがジョギングを継続しているので、来年一緒に走りましょうとお誘いしました。一人だとなかなか頑張れませんが、誰かを誘えば「やーめた」とは言えないので頑張れそうかなと。来年こそは!と思っています。
マラソンは走りませんでしたが、その分お仕事は頑張りました。週末は体調を崩された利用者さんがみえたので点滴をしました。すぐに回復出来なかったら週明け入院になってしまうかもと思っていましたが早期に回復され、今日は車椅子でスタッフと外出もされました。週末は医療依存や介護度の高い方の訪問が多いので、そんな中イレギュラーな事があると私の気持ちもそわそわします。なんとか週末を乗り切って元気になってもらえたのでほっとしています。
そんな週末のご褒美に、今日は事務所でプラレールで遊びました。昨晩、我が家の子ども達に線路を繋げておいてもらい、それをまたアレンジしながら3歳の男の子と何時間も遊びました。そんな中、面白いことがありました。その子が私とスタッフの橋本を「男の人」だと思っていたのです。「違うよ~、女の人だよ」と言うと目を丸くして驚いていました。きっと、彼なりの男女の識別観念があるのでしょう。良かった、私だけ男の人だと思われてなくて。
写真のケーキは三男の誕生日のケーキです。9年前の三男の誕生の時は長男、次男も一緒でした。産むまで性別は聞いていなくて、産まれた時にお兄ちゃん達が真っ先に「男の子だ!」と言ったのを覚えています。お産の後でぐったりしながら、「あ~やっぱりね・・・、女の子は出てこなかったか。」と思ったのを覚えています。


先日、訪問看護の利用を考えてみえるご家族から色々と質問がありました。介護保険と医療保険があるけど、どっちをつかって訪問看護を受けるのか自分達で決められるのか、介護保険の場合、一割負担だけどどれくらいの負担額になるのかなどなど。
介護保険を使うか医療保健を使うか、基本は介護優先です。ただ、厚生労働省の定めた疾患や状態(癌末期、留置カテーテルがある、気管切開しているなど)の場合は医療保険の適応となります。どれくらいの時間訪問してもらえるのかという質問もありました。介護保険の場合は20分、30分、1時間、1.5時間という区切りで所要時間に応じた利用料を算定をします。医療保険の場合は1.5時間を超える分は加算がつきますが1.5時間以内であれば30分でも1.5時間でも同じ金額です。しかも、1.5時間を超える訪問を行なっても長時間加算をつけられる回数に制限があるので、毎日1.5時間を超える訪問をしても毎回加算をつけることはできません。現在、よつばでも週4回1.5時間を超える訪問を行なっているお宅がありますが、長時間の加算をつけられるのは4回のうち一回のみです。もう少し柔軟な制度にして欲しいなと思いますが現状はこうなのです。それでも週に4回、1.5時間の訪問させてもらうのは、様々なケアを行い、家族の心配毎などを聞いている時間も含めると1時間では終われないからです。また家族が利用者さんから離れて買い物に行く時間を確保しているのですが、買い物に行って帰ってきて1時間ではかなり厳しいのです。家族一人でその利用者さんのケアを行なっており、一人にはできない利用者さんなので限られた曜日しか外出できず、そうすると買い物も多いですし役所や銀行にも行きたいので1.5時間でなんとかいけるといった感じです。経営者目線で考えると、医療保険の場合は一時間程度で終われる訪問を何件か入れた方が割が良いと思います。でもそんな思いが頭をよぎるとき、私が訪問看護ステーションを立ち上げる前にお話しを伺った管理者さんの言葉が浮かびます。「お金に目がくらんではだめ。そうなると仕事の質が落ちる。」と言われたことがありました。なんでもかんでも長ければ良いわけではありませんが、先ほど紹介した利用者さんは1.5時間必要だなと思えるのです。なのでスタッフにも「早く切り上げて帰ってきて」とか「1時間で終われるように内容を替えよう」とかは言いません。私がそのお宅を訪問すると「先日長くなっちゃってすみません。でも助かりました。」と家族に言われることもあります。しっかり仕事をしてきてくれているんだなと感じます。
人を雇用するからにはちゃんと収益をあげないといけないけれど、仕事も中途半端にしたくない、自分達の仕事が価値あるものでありたいと思うのです。若いころは給料明細をみてもっと働きたーい(もっとお金が欲しい)って思っていましたが、今は、目に見えないものの方が大事になってきました。
写真は次男の誕生日ケーキです。来週は三男の誕生日ケーキが載ると思います。3月は二人の誕生日が続くのでケーキがたくさん食べられます。


今日は暖かい日でした。あちらこちらで梅の花が咲いているのでもう春を感じます。高校はもう卒業式が終わり、名古屋市立の中学校は明日卒業式のようです。小学校は再来週です。我が家は今年、次男の小学校卒業があります。中学の制服等も買い揃えて何となく準備ができてきました。2学年上に長男がいるので二人目の中学入学ですが、長男は自由登校(3日/週程数時間登校)しており、学校行事にも参加していないので私にはまったく中学校の生活がみえていません。なので、初めて子供を中学校に行かせるような気持で新鮮です。大きく育って欲しいなあと思っています。一年生の時からお兄ちゃんと一緒に学校に行っていた三男は、「一人で学校にいくのかあ~」とぼやいています。我が家は小学生があと一人となり、赤ちゃん時代の子育てを懐かしく思います。
昨日、利用者さんのお宅で話をしていたとき、ご本人が「病気の進行がとまって欲しい」と言いました。進行性の病気で治療法も今のところはありません。最近ADL(日常生活動作)が低下して手助けがなければ生活できない状態となっています。そんな中、本人や家族、先生と今後の支援の在り方や、もしものことを話していた時に出た言葉です。私たちは今後のことを見据えていますが、ご本人はまだそれができません。「そんなにせっかちになるな」とも言われました。私たちが今後の方向性を決めたいと思うのは、もし急変したときにどこまでの処置をするかを決めておかないと、急変時にどのように動けばいいのかわからなくなるからです。また、本人の意にそぐわない治療をされてしまうかもしれないということもあります。私たちが支援に入り始めたときに、もう意思が決まっている方もいればそうでない方もみえます。本人の意思は決まっていても家族は違う考えをもっていて方向性が決まらないということもあります。逆に、本人・家族で意思統一ができていて病状が進行しようがブレない方もみえます。そういう方でもやはり、何年もその病気と生活してきたという歴史があります。その中で決められたという過程があるんだと思います。病気の受け入れやその先の治療の選択については「時間」が必要だと思います。ただ、時間が流れていくだけでなく、心の葛藤や不安、希望などの気持ちに寄り添い「自分で決める」ことができるよう支えたいと思っています。私たちも方向性が決まらないことへの不安、もしもの時のことを考えると・・・と焦る気持ちがあるのも確かです。「意思決定への支援」、大変難しいと感じる日でした。
写真は近くの神社に咲いている梅です。毎日通る道ですが、昨日までこんなに咲いていなかったように思います。