訪問看護に従事していて必ず直面する事の一つに「看取り」があります。私達看護師は、人生の最終段階にある人を援助することに力を注ぎます。「自分は何か力になれるのか?」と考え、今、目の前にいる人が「本当に望む療養ができているのか?」「話す声にじっくり耳を傾けているか?」「抱えている苦しみを理解できているか?」と振り返りながら接しています。人生最後の段階になったと思った時からそう考えるのではなく、常日頃からそういう問いかけをしながら関わっています。「もっとこんな風にしたらいいのに」とか「こうすべきだ」という意見を聞くことがあります。でもそれは、誰がそう考えているのでしょうか。援助者が一生懸命考えてくれるのはとても有り難いことです。ですがたくさんの熱い想いを持つ人が、それぞれにこうしたらいいと思うことは、その中心にいる人が望んでいなければただ負担になるだけです。医療や介護の現場ではよくあることですが、いちど立ち止まって「主語は誰なのか?」ということを考えないと、だれのための支援なのかというところがズレてしまいます。私も時々「本当にこれでいいのか」「本当は間違っているかもしれない」と思うことがあり、「主語は誰?」と自分に問いかけます。私達が自分が良いと思う事を一方的に勧めるのではなく、その人が何を大切にしているのかを理解しようとする姿勢を持ち続けることが大切だと思っています。
また、ケアの対象として忘れてはいけないのは家族です。家族にとって療養中の全てのやりとりが記憶の中に残ります。大切な人の死を受け入れ、その後も生きていかなければならない家族にとって「こんな風にできてよかった」と思えることがあることが必要だと思います。私は癌の末期の母親を10年以上前に自宅で看取りました。食べられなかったのでずっと点滴をしていたのですが、「今日は昼間は点滴しないから抜いて」とか「朝までに点滴終わるようにして」とか娘が看護師であることをいいことに、都合良く私をつかっていました。「あれだけわがまま聞いてあげたんだ」という想いが母の死を受け入れる一助になったと思っています。「もっとこうしてあげたかった」という想いを持ちながら生きていくことは辛いですから。
今、看取りの最中にいるご家庭があり、私の今の思いをまとめてみようと思い今日はこんなブログになりました。
写真は三男と一緒にみた今年初の花火です。