日曜日の中日新聞一面に、「運動会、中止か延期か決行か」という記事がありました。新型コロナウイルスの緊急事態宣言が発令中の愛知県の各学校で運動会の取り扱いを巡って対応が分かれているそうです。児童の気持ちや経験の機会、感染防止をどのように両立させるのか、「正解のない問い」に学校が苦慮しているという内容でした。
以前も書いたと思いますが、うちの子の運動会は実施されました。いろいろと工夫や規制はありましたが。この記事の中で教育研究家の妹尾昌俊さんのお話で「子ども本位になっているか」を見つめ直す機会であるとの言葉にとても共感しました。コロナ前の運動会の一部では、過度な準備や本番での派手なパフォーマンスなど本来の意義や目的が薄れていたのではないか、子ども達が運動に親しんだり、異学年で協力したりする学びの場であり、保護者のための行事ではないという見解です。そうだなと納得しました。以前は一日がかりでお弁当も持参して、お昼は親子でピクニックみたいな感じでお弁当を食べたり、運動場にテントを張って場所取りもしたりと一大イベントでした。私は朝早くから場所取りで並んだり、テントを張ったりはしていません・・・。そういう気力は無いので。まるで親のためにあるような感じだったかもしれません。その時はそうは思っていませんでしたが、このコロナ禍で運動会のやり方が変わってそんな風に思えてきました。
私の子ども達の通う学校では、先生達も感染対策を熟慮して実施したと思います。子ども達の気持ちや経験ということから考えてのことだったのだと感謝しています。無観客でも良かったと思いますが、みさせてもらえた事にも感謝です。
今、私が真剣にみているドラマの一つは「ドラゴン桜」です。阿部寛演じる桜木先生に私も色々学びます。ドラマの中で発達障害の子どもが出てきます。「発達障害の子どもの居場所」について語る場面があり、「生徒のためにやっていることが例え間違えていたとしても、その熱意や情熱はきちんと伝わっている。居場所という基礎があるからこそ、子どもは才能を伸ばせる」という言葉。子どもが安心していられる居場所が基礎なんだと。安心していられる居場所ってやはり「子ども本位」で考えてくれる場所ではないでしょうか。我が家はそんな居場所になっているかな、また子ども本位ってどういうこと?と掘り下げていくと色々考えさせられます。私が頑張っていることは、子どもが話してきたら可能なら手をとめて顔をみて話を聞いてあげること。これって意識しないとできないです。ご飯を作っている時だと手は止められないから顔だけでもみるという努力をします。毎日毎日次男・三男はよく喋ります。長男はぼそっと時々話してくる程度です。それでも長男が何か言って来た時はそちらに顔を向けます。子ども達に手がかからなくなるとこうやって意識しないと向き合うことがないかもしれません。うちは母親不在の時間が長い家庭ですが、子ども達の安心できる居場所として、少しの時間でも頑張っていかなければと思っています。写真の10箇条はドラマの中で出てきたものです。私が時々確認できるよう、ここに載せておきます。